現在の上田市では「中央〇丁目」という住所で表されている上田城周辺の城下町ですが、江戸期はそれぞれに町の名前がありました。商店街などの名前に残っている場所もありますが、未だに当時の町名で呼んでいる市民が多いのも特徴です。そんな旧町名やその由来をまとめました。(参考:上田・城下町活性会)


生塚(うぶづか)

真田氏は上田築城の後の城下町造りを行い、さらにその周辺に城下囲いの村々を造り屋敷年貢を免除した。生塚もそのとき太郎山の麓にあった堂屋敷から移した村で、そのうち字生心・塚穴などの「生」と「塚」をとり、生塚と呼んだのが始まりと伝える。


諏訪部(すわべ)

諏訪部は、古代には須波郷(すわのごう)に含まれていた古い由緒を持つ地名である。千曲川をへだてて諏訪形のあることなどから、古代において諏訪氏に関係があったと考えられ、鎌倉時代に勢力をのばした諏訪部氏の本拠地があったところと伝えられている。


西脇(にしわき)

真田氏は上田城築城天正11年(1583年)のあと城下町造りを行い、さらにその周囲に城下囲いの村々を造り屋敷年貢を免除した。西脇村もそのとき太郎山の麓の下西脇から移った村であり、下諏訪春宮の一御柱造営次第記録(永正3年(1506))には西脇の名が記されている。


鎌原(かんばら)

真田氏が城下町造りを行い、さらにその周囲に城下囲八邑(村)の一つとして、屋敷年貢を免除した太郎山麓に近い新屋等から移して造った村。上田城築城当時の図と伝えられる天正の古図にも、この地を新鎌原と記してある。


紺屋村(こんやむら)

天正11年(1583)真田幸村の父、昌幸が上田城を築いたあと、真田氏とゆかりの深い海野郷から紺屋(染物屋)を移して造った町。宝永3年(1706)には、紺屋が10軒あった。後に、上紺屋町と下紺屋町に分かれた。


柳町(やなぎまち)

柳町は、原町と紺屋町の両町をつなぐ街道筋に、旅籠屋や商家が軒を並べるようになってきた町。町名は町筋に柳の木が多かったことによるという。文化元年(1804)、この町には呉服屋が25軒もあって賑わった。


木町(きまち)

元和8年(1622)上田城主が仙石氏に替わった頃、木町橋の東側を木町、西側を東鎌原町と呼んでいた。時代が下ると、橋の西側を木町と呼ぶようになった。町名は、材木が積まれていたことによるという。江戸時代を通じて、橋の西側は向け屋敷の町であった。


房山(ぼうやま)

房山(望山)は古くは東太郎山を呼んだが、永正3年(1560)には太郎山麓一帯の地を房山と呼んでいる。天正11年(1583)上田城を築いた真田昌幸が、城下囲八邑(村)の一つとして重視し、屋敷割をして山麗に散在する住民を移住させたのだが、この町の始まりである。


川原柳(かわらやぎ)

真田氏のあと仙石氏の時代、上田城修築の瓦を御作事奉支配のもと、この町で焼いたころから瓦焼き町と呼ばれていたが、明治初年かわらやきの時に川原柳の字を当てて、川原柳と呼ぶようになった。


原町(はらまち)

天正11年(1853)真田昌幸は上田城を築き、城下町造りを始めた。このとき真田氏とゆかりの深い原之郷(現真田町本原)から住民を移住させて造った商人町で、海野町とともに上田城下町のうち最初にできた町である。


丸堀(まるぼり)

真田氏によって築かれた上田城三の丸の中屋敷(現清明小学校のあたり)東側には、池のような丸い堀がつくられていた。この堀を丸堀と呼び、その横の通りを丸堀通と呼んでいたのが丸堀町の始まりである。


大手町(おおてまち)

天正11年(1583)上田城築城のあと、大手口から二の丸に至る道筋に作った武家屋敷の町で新参町と呼ばれていたが、仙石氏・松平氏の時代には上級武士の屋敷が並んでいた。戦後になって大手町と改名した。


海野町(うんのまち)

天正11年(1853)真田昌幸は上田城を築き、城下町造りを始めた。このとき真田氏とゆかりの深い海野郷(現東御市本海野)から住民を移住させて造った商人町で、海野町とともに上田城下町のうち最初にできた町である。


袋町(ふくろまち)

元和8年(1622)上田城主が真田氏から仙石氏に替わると、馬場町側から道をあけて武家屋敷の町を造った。道が行き止まりとなったことから、袋町と呼ばれた。のちに袋を野ぶり海野町へ道が通じたということから、この通りをねずみ小路と呼ぶようになった。


馬場町(ばばのちょう)

元和8年(1622)上田城主が真田氏から仙石氏に替わると、それまで馬場であった場所を町割して武家屋敷の町としたことから、馬場町と呼ぶようになった。松平氏の時代には、この町に医者が多く住んでいた。


鍛治町(かじまち)

天正11年(1583)真田幸村の父、昌幸が上田城を築いたあと、真田氏とゆかりの深い海野郷海善寺村(現東御市)も鍛治屋を移して造った町。宝永3年(1706)には32軒、明治5年(1872)には16軒の鍛冶屋があった。


材木町(ざいもくちょう)

上田城下町が大正初期東方に広がり、上田高等女学校(現上田市文化センター)・東小学校(上田一中)等に通じる道路として、下鍛治町側から開通したのが材木町の始まりで、町名は町に材木会社のあったことによる。


横町(よこまち)

城下町のうち海野町が発展するにつれて旅籠屋・商家職人などが増加し、海野町から南に折れ街道筋にできた横の町であるため横町と呼んだ。この町は北側にも延びて鍛治町に続いた。横町と鍛治町は寺が多く、城下町防備のために並べたといわれる。


鷹匠町(たかじょうまち)

真田氏によって造られた城下町のうち、城の南東に鷹匠の住居地と定めて造られた町である。真田氏のあと仙石氏の時代寛文3年(1663)の記録に、この町は鷹匠其のほか扶持人の屋敷42軒と記されている。


常田(ときだ)

常田の名は古く、鎌倉時代の初めか常田庄(ときだのしょう)と呼ばれていた。その後、天正11年(1583)真田昌幸が上田城を築いたあと、城下囲八邑(村)の一つとして重視し、科野大宮社(しなののおおみやしゃ)近くに屋敷割をして造ったのが常田の始めである。


踏入(ふみいり)

踏入とは踏み入るという意味で、この地名は上田城下町の出来る前から呼ばれていた。したがって上田城下町の入口というより、中世から続いていた常田庄への入口とも考えられる古くからの地名である。