終戦の1945年8月15日から3日後、上田市富士山の「猫山」で妻子とともに自決した、熊谷陸軍飛行学校上田教育隊助教官・遊佐卯之助准尉(享年30)の慰霊碑を、上田市民有志らでつくる「慰霊の会」(栁澤文雄代表)役員らが命日の18日に参拝した。
同会は戦後70年の2015年から現地「猫山」にある慰霊碑を参拝し、遺族や一般が参加する「慰霊の集い」を行っている。新型コロナ感染拡大により昨年から集いは中止とし、今年も役員ら数人が参拝して慰霊および平和を願った。
遊佐准尉は東京出身で、上田市中之条にあった上田飛行場で特攻隊員の指導を担当し、温厚な人柄で教え子らに慕われていたという。そして「君たちが命を終えるときは、自分も命を終える」と教え子に伝えていたとされ、約束を果たすという責任感から8月18日に妻・秀子(22)と子・久子(生後27日)を伴い「猫山」の東斜面で自決し、翌日に地元の中学生により発見された。
この日の慰霊参拝では遊佐准尉が終戦前日の14日に認(したた)めた、両親に宛てた遺書にあった「特攻の花と散る日をまちしかど ときの至らで死する悲しさ」、自決前日の17日に詠み居室机上にあった「おのが身を信濃の山路にくさむせど あだうち払え大和魂」の2つの辞世の句を参列者で吟詠。その後、線香をあげて手を合わせ、戦争で失った命への想いを馳せる。
慰霊の会・栁澤会長は「遊佐事件は限りなく悲しみに満ちたものです。この敗戦の悲話を風化させることなく後の世に伝えていきたいと願い、命日に慰霊参拝を続けています」とあいさつし、参拝者の真心と理解・協力に感謝した。
事務局担当・村山隆さんは「東京に暮らす遺族はじめ、多くの人が新型コロナにより参拝できずにいる。その皆さんの想いと共に慰霊したい」とし、「戦後76年、戦争を知る人、遊佐准尉と交流のあった人が減っていく中、慰霊の会の活動をどう継続していくかが課題。一方で慰霊碑を訪れる人、歌にするなど活動を始める人もいて心の支えになっている」と話した。